☆☆☆ 映画『鐘の鳴る丘(隆太の巻)』がYouTubeにM32Kさんにより、動画として2019年06月16日アップロードされています。https://www.youtube.com/watch?v=Cw5InydBCr0 ☆☆☆


★★★ 終戦記念日 ★★★ 

1945年8月15日正午、昭和天皇はラジオ(玉音放送)を通じ、日本の降伏を国民に伝えた。満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと拡大した戦争は15年におよんだ。政府によると、日本の戦没者は軍人・軍属230万人、民間人80万人。アジア・欧米諸国にも多くの犠牲をもたらした。政府は63年から毎年8月15日に全国戦没者追悼式=写真=を催し、82年にこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めた。

※出典 朝日放送デジタル

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★★★ 兄は16歳で少年特別航空特攻隊に志願した…千人針 ★★★

私の兄(昭和2年・1927年生まれ)は旧制能代中学在学中に少年特攻隊に志願し、特攻の夢かなわず特攻出撃命令が下る前に終戦となり、帰還した。志願兵として出発前、幼かった私と姉は晒し木綿に書かれた虎の絵に赤い糸で玉結びを縫い付ける千人針「虎は千里を行き千里を帰る」を集めるため町内を一軒一軒お願いして回った。父と母の願いは、少年特攻志願兵の兄の無事帰還だった。

兄の出征の前日、両親は近所の親しい人たちと親せきを呼び、赤いお膳に酒肴を整え、お祝いをした。カーキ色の詰襟を着て日章旗をもった兄は国を守る赤い血に燃え、凛々しく、両隣に父と母、そして小さい兄(昭和9年)と姉(昭和12年)と私(昭和14年)が特別に作った晴着を着て写した記念写真がある。(残念にもアルバムから行方不明。)

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★★★ 幼稚園児だった私…ご真影と宮城遥拝(きゅうじょうようはい)と戦争ごっこ ★★★

戦争中だったが、教育ママの母は私たちきょうだいを近くの能代渟城幼稚園に入れた。幼稚園では、毎朝、朝礼が行われ、ご真影(天皇と皇后両陛下の写真)に敬礼をした後、宮城遥拝(東京の皇居の方向に向かい敬礼)を行った。遊びは徹底して「戦争ごっこ」。男子の兵隊さんが鉄砲の玉に当たり怪我をしたと連れて来られると、女子は看護婦さん役で熱を測ったり、包帯を巻いたりでいそいそと働いた。(性別役割分業をしっかりしていた。(^^;))

「♪テンニカワリテフニオーチ♪」幼稚園で意味を分からないまま歌っていました。
「♪ 天に代わりて不義を討つ 忠勇無双の我が兵は 歓呼の声に送られて 今ぞ出 で立つ父母の国 ♪」...いざ!出陣の歌だったんですね。

「♪旅順開城約成りて ♪敵の将軍ステッセル ♪乃木大将と会見の 所はいづこ水師営 ♪」。我が家の脇のコンクリート製防火用水の上に子どもたちが集まってまりをついて遊ぶ時の歌でした。意味は分からないけど、乃木大将が偉い人くらいは教えられてました。

★★★ 【忠魂碑】で幽霊ごっこ ★★★

渟城幼稚園は八幡神社にあり、八幡神社の神主さんが園長だった。幼稚園脇には【忠魂碑】と書かれたデッカイ石碑があり、そこで幽霊ごっこをよく遊んだ。終戦後、いつの間にか石碑は撤去されていた。

「♪勝ってくるぞと 勇ましく 誓って故郷(くに)を 出たからは♪ 手柄立てずに 死なりょうか♪ 進軍ラッパ 聞くたびに 瞼に浮かぶ 旗の波(母の顔)♪」この歌もよく歌ってました。

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★★★ B29が頭上を飛行…能代市桧山の山奥大森村へ疎開する ★★★

私たち家族は能代市が空襲を受ける危険が高いと、父の実家のある能代市桧山(桧山納豆・桧山城)の山奥の大森村へ疎開した。当時我が家の脇には道路に埋め込まれた大型の円形の防火用用水があった。「空襲警報発令!!」近所の2階のある家の屋根に梯子をかけて、バケツリレーで水をかける訓練がしばしば行われた。男たちは出征して居ないので訓練は白い割烹着を着た女たちが中心だった。

また、わが家から100m位離れた所には「疎開道路」と呼ばれるとても広い道路があった。戦争も激しさを増し、わが町の頭上を毎日何回もB29やB25が轟音を響かせて低空飛行するようになっていた。

母は昭和17年生まれの妹をおんぶし、父は僅かな家財を積んだリヤカーを引き、私たち子ども3人は3里近くの道を歩いて疎開先の山奥の大森まで行った。今になって思えば、父も母も私たち子どもを守るため必死だったのだと思うm(__)m。

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★★★ 疎開先でののどかな生活…米機墜落事件 ★★★

蚊の攻撃には辟易したが、1945年の春から秋にかけての疎開生活は子どもの私にとっては快適だった。十代の少年だった従兄(いとこ)が馬を洗いに行く沼(赤沼)について行ったり、おばあ(40代なのにそう呼んでいた)が「マリちゃん、マリちゃん」と、とても私を可愛がり何処でも出かける先に私を連れて行ってくれた。

ある日、おばあが「アメリカの飛行機が墜落した。マリちゃん見に行こう」と、見に行ったことがある。山野を超えて行くと小さな飛行機が見えた。壊れた飛行機の周りに、大勢の村人たちが集まっていた。「アメリカの青年は怪我をしたが生きていた」と言うのが聞こえた。若きアメリカ兵の運命はその後どうなったのだろうか?

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★★★ 日本、1945年8月14日 ポツダム宣言受諾 ★★★

ポツダム宣言は1945年(昭和20年)7 月26日にベルリン郊外ポツダムにおいて、アメリカ合衆国大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル、中華民国主席蒋介石が共同声明として発表。大日本 帝国(日本)に対して発された、全13か条から成る宣言である。正式には日本への降伏要求の最終宣言。宣言を発した各国の名をとって、「米英支三国共同宣言」ともいう。ロシアのスターリンは署名せず。

他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本は、1945年8月14日に、この宣言の受諾をスイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌8月15日に国民に発表された(玉音放送)。

1945年9月2日に東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた無条件降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて外交文書として固定された。 調印・即時発効(降伏文書)に至って第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結した。
※出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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★★★ 土崎空襲 南の空が朝まで真っ赤に燃えていた ★★★

夜中、両親に起こされて、家族みんなで村人と集まり、土崎が燃えるのを見に行った。74年経った今も、私の目の中に夜空が真っ赤に染まっているのが見える。アメリカは日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏との情報を得ながら、14日から15日朝まで、日本各地が米空軍機から爆撃を受けた。卑怯者め!!<(`^´)>。

広島と長崎で原子爆弾の実験し、この世に地獄を作り出しても、なお足りず、【日本を再び戦争ができない国にする】ため、コテンパンに爆撃したのだろうか。本当は不要だった最後の爆撃で、亡くなった人はどんなに無念だったことか。

【土崎空襲】は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20 年)8月14日夜間から翌日の8月15日にかけて、秋田県秋田市土崎港にある、当時日本最大の【日本石油秋田製油所】を標的としたアメリカ軍によって行われた大規模空襲である。

14日夜10時半頃から翌15日未明にかけて、B29 130機が秋田市土崎港周辺を3波にわたり空襲している。投下された爆弾は1万2000発。【日赤製油所】と港湾施設は壊滅した。住宅地にも爆弾が降り注ぎ、建物の全焼104、半焼6、全壊12、死者は民間人が93人、軍人160人前後と推定され、負傷者数については明らかではない。

この「土崎空襲」については毎年8月になるとセリオンに当時の資料、写真が展示され、市民が自由に見られるようになっている。

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★★★ 玉音放送…戦争が終わった…神風は吹かなかった…国民は奴隷にされる!★★★

「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ…非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セム」。1945年(昭和20年)8月15日正午、昭和天皇が「終戦の詔書」を朗読した。いわゆる「玉音放送」がラジオで全国放送された。

(映画『日本のいちばん長い日』ノンフイクション作品をご覧になることお勧めします。1967年(昭和42年)の岡本喜八監督の旧作と2015年(平成27年)の原田真人監督の新作があります。)
※キーワード ★玉砕 ★一億総決起 ★本土決戦 ★国体の護持 

「正午から天皇陛下の放送がある」と知らされていたのだろうか、ラジオで玉音放送を聞いた。その時の印象は私には残ってない。疎開先から能代へ帰ってから、「日本国民は全員、奴隷にされるぞ。女は顔に墨を塗らねば」「ドレイって何?」「アメリカ人にこき使われるんだよ」と大人から聞いて、幼かった私はこの先どうなるのだろうと、とても不安だった。

しかし、日本国民は誰一人奴隷になることはなかった。「警戒警報発令!!」サイレンが不気味に鳴ることもなく、電灯の光が外に漏れないよう電気を消すこともなくなった。戦争が終わって平和が訪れた。

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★★★ 「母上、ただ今帰りました」兄が帰還 ★★★

「母上、ただ今帰りました」。兄が疎開先の農家の物置小屋を改築した小さな家の戸口に立って、最敬礼をしていた姿が今も鮮やかに目に浮かぶ。6歳の私は兄がゲートルを解く間もずっとそばにいた。「朝起きたら兵舎にはボクたち少年兵だけが残されていた」「上官は物資を全て持ち去り兵舎は空っぽだった」。

ある日、勉強好きで物静かな兄が刺身包丁で居間の襖を切り裂いた。旧制能代中学校校長が訪れ、学校へ復学するよう説得したが、兄は応じなかった。時代の価値観は激しく変わり、「自分の命に代えて国を守る」という兄の信念とは相入れなかったのだと思う。

兄は折角入った「鉄道の駅員」を辞めて上京し、警視庁に入った。72歳で亡くなり、お葬式の場で「兄さんも情熱家だから戦時中、少年特別航空特攻隊へ志願したのよね」と言うと、その場にいた家族は一様に驚いた。妻や子供たちには特攻隊のことは一言も話していなかった。

兄は両親の強い反対を押し切って特攻隊へ志願したのだった。父はまだ十代の子供だった兄を青森、金沢、横浜と慰問に訪れていた。

「♪海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) ♪山行かば 草生(くさむ)す屍 ♪大君(おおぎみ)の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせず♪」

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★★★ 小学校入学と墨塗り教科書 「 ススメ ススメ ヘイタイサン ススメ」…二宮金次郎の銅像 ★★★

日本が戦争で負けた直後(第二次世界大戦で敗北後)、連合国軍最高司令官総司令部が不適切と判断 ... 当時の国民学校(現・小学校・中学校)では、当時使われた教科書のうち、戦意高揚を歌った文章の箇所を抹消するため、墨塗りされた。

小兄と姉は学校で墨汁で本を塗りつぶした。私は小学校に入学し、「ススメ ススメ ヘイタイサン ススメ」や「サイタ サイタ サクラガサイタ」を塗りつぶした教科書で授業を受けた。

入学した小学校の講堂にはもはやご真影はなかった。小学校の玄関横にあった二宮金次郎(二宮尊徳)の銅像もいつのまにか撤去されていた。母はことのほか勉学にいそしむ二宮金次郎が好きであった。

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★★★ 映画『鐘の鳴る丘』『原爆の子』 ★★★

『鐘の鳴る丘』私は今でもこの映画の主題歌を歌えます。「♪緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘がなります キンコンカン♪ 鳴る鳴る鐘は父母の 元気でいろよと言う声よ 口笛吹いて おいらは元気♪」。1番と2番を混ぜて記憶してました(^^;)。敗戦後、昭和22年から25年まで放送されたNHK連続ラジオドラマ『鐘の鳴る
丘』(菊田一夫原作)を私たちきょうだいは夢中で聞いた。

佐田啓二出演の映画は、小学校の先生に引率され松竹映画劇場で見ました。戦災孤児たち(浮浪児と呼ばれていた)の物語は感動と涙だった。

『原爆の子』は、作文集『原爆の子―広島の少年少女のうったえ』を元に、新藤兼人が脚本・監督をした作品。被爆から七年後に製作された本作は、原爆を取り上げた最初の日本映画と言われる。出演は音羽信子。この映画も、学校の先生に引率されて見た映画である。ずいぶん泣いた記憶がある。  

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★★★ 平和教育 ★★★

終戦時、小学5年生(昭和9年生)の夫曰く、「戦時中、一番スパルタで生徒をぶっ叩いた先生が、戦争が終わったらすぐ、180度変わって平和教育者になったのには、ショックだったな。大人はこんなに変わるんだ!!大人への不信感を持ったよ」。

私は平和教育を受けて育った世代である。平和であるから、私たちはささやかな日常を幸せに暮らせてると思う。戦争は人々から全てを奪う。しかし、今はどうだろうか。平和思想は危険思想とみなされてる気がするのは私だけでしょうか。

政府の「平和憲法を改正しよう」「徴兵制で若者を鍛え戦争ができる国にしよう」という意図が見え見えである。今年はテレビから広島原爆忌も長崎原爆忌も、そして終戦記念日もニュースとして最小限に報道された。74年前、もう忘れてもいい時代になったと言わんばかりである。国民が忘却するよう世の中は動いている。

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どんな優れた兵器も殺人と破壊目的で制作されていることを忘れてはならない。無人のドローンなどのロボット兵器が遠隔地からの操作で爆撃でき、既にアフガニスタンで成果を上げている。急速に進化した人工知能(AI)の軍事利用が始っている。無人飛行機、無人船、無人戦車…恐ろしいのはAI同士は瞬時にして情報伝達ができ、学びあい、より的確に判断し、殺傷する「自立型致死兵器システム(LAWS.ローズ)」が開発されていることである。

ロボットが人間を越える日が来る?ロボットが憎しみと怒りの感情を持ったら?AIがSFの世界が現実化する?

「人間というのは同じ土塊(つちくれ)から創られたのであるから、皆が同胞である。もし他人の痛みに心が動かないようであれば、その人は人間の名に値しない」詩人サーディー(イラン)。

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長~いブログにお付き合いいただき有難うございますm(__)m。ではまた!(^^)!。

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2019-08-15 23:46 | カテゴリ:日記