2月2日(日曜日)は、町内の雪祭りでした。例年は各家々でそれぞれ工夫を凝らした、大小の雪像やミニかまくらを作り、最優秀賞、優秀賞など選ばれるのですが、今年は残念にもそれがありませんでした。気温が10度近くまで上がり雪が溶けて、雪がない雪まつりとなってしまったからです。その上、雨が降り、パンダ公園に辛くも残った雪でミニかまくらを作ったのでした。ミニかまくらに明かりを灯したら、夕やみにぽっと浮かび可愛くきれいでした。

雪まつり 雨の中で灯を入れる人たち 
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ミニかまくらに灯がともる 
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お汁粉と玉こんにゃくと熱燗のお酒が振舞われました。
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ビールと熱燗で一杯♪♪ かまくら作りお疲れさまでした。
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〔 リハビリと私(1) 〕の続きを書きますね。
年末年始は入院患者が一時帰宅を許される。病院側も大晦日やお正月はなるべく事務職・看護師・医師などに休暇を与えるのがしきたり(労働条件)になっている。大晦日、お正月は病棟に残っているのは重篤な患者だけである。
私は少し快方に向かいつつあったが、ヘルペス拡大の恐れが無くなったわけではなく、37度5分前後の微熱が常にあり、左の耳の中で蝉と鈴虫が激しく鳴き(耳鳴り)、まだ身辺自立が全然できてなかったので、居残り組になった。
いつも慌ただしい病棟もお正月は静かなものである。

嘔吐のため、食べ物にはおのずと制限があった。病院側で食事制限したのではなく、私の味覚が変わっていたのである。お正月になった時点で、私自身が食べられるものはカッパ巻き、生のパイン、キュウイ、イチゴ、リンゴ、ミカン、梅漬け、大根の白い1本づけ、レモンであった。レモンは入院当初から香りをかぐと吐き気が幾分和らぐので、必需品であった。バナナは酷い味になっていて、受け付けられなかった。

私は毎年お節料理はAホテルに頼んでいた。夫が小分けして持ってきてくれたそのお節は黒豆を除いて口にすることができなかった。
お正月は病院で、有難くもお節料理風の食事が供されたが、ほとんど箸をつけることができなかった。お正月はスーパーにカッパ巻きは売っていなく、夫は調理の人に頼んで特別に作ってもらって持ってきてくれていたことが、後でわかった。お正月のさなかに、わざわざ3本のカッパ巻きを作ってくれたその調理師さんにも感謝である。

病人の単純な一日の生活は、「おはようございます。お変わりありませんか?」からはじまり、洗顔、朝食、体温計、血圧計、脳のMRI検査、注射、点滴、シーツ交換、昼食、氷枕の交換、体の清拭、寝間着交換、寝具交換、担当医の往診、部屋の掃除、トイレの往復(介助)、お正月過ぎからは洗髪もあり、夕食などで、「お変わりありませんか?消灯します。おやすみなさい」で終わるが、無為のまま時間は忙しく過ぎ去って行った。

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クリスマス頃から週刊誌と新聞が読めるようになった。家の書棚につんどくになっていた、2001年に出版された『斎藤茂男 現代を歩く』『斎藤茂男 ジャーナリズムの可能性』(共同通信社)を夫から持ってきてもらって読みはじめた。斎藤茂男さんは口惜しくも1999年既に亡くなられていた。誰にも媚びないジャーナリストのまっすぐな眼差し、人間としての優しさに感動し共感し、今もなお、私の生き方に多くの影響を与えている。
私は能代の一長堂書店で斎藤茂男さんの著書『花婿学校』『父よ母よ!』『妻たちの思秋期』『命かがやく日のために』『教育って何だ!』『飽食窮民』を見つけた。

『花婿学校~いい男になるための10章~』1990年(三省堂)は「花嫁学校」のパロデイであるが、当時「男女平等の共生社会」の必要性が真剣に論議され、女性の自立を促し、さまざまな努力がなされても、肝心のパートナーである男たちが旧態依然として男性社会に居座って変わろうとしなければ、女たちの徒労に終わりかねない。
この危機感から樋口恵子さん(校長)斎藤茂男さん(副校長)坂本洋子さんが果敢にも『花婿学校』の入学者(男性のみ)を募集(定員50名、入学者60名、残り23名が単発で参加)したのであった。募集定員をオーバーし、教室は男性でぎっしり埋まり、熱気を帯びた。司会は斎藤茂男さん、講師陣には上野千鶴子さんや田嶋陽子さんも呼ばれた。
たかが、「女・子どもの問題」ではなく、女性が働く喜び、生きがいをもつことがこれからの社会の形成にかかわる重要な問題であることを提起し、男性がそれをどう受け止め、男女平等社会を実現していくのか、先生も生徒も真面目に討議した記録である。

1999年、国を挙げて男女平等を進めるため「男女共同参画社会基本法」が制定、施行された。この頃はイクメンと呼ばれて、男性の育児参加が少し目につくようになったが、家庭と社会での男女の共働は、取り組みが残念ながら非常に遅れていて、『花婿学校』が提起した問題はいまだに新しい問題となっている。

『ルポタージュ日本の幸福~命かがやく日のために』(斎藤茂男編著)1985年(共同通信社)の表紙に「ダウン症の赤ちゃんは生きてちゃいけないんですか。どうして!」と書かれている。その、内容の一部ををトップページ(P13)から引用する。
「繁栄」の残りカスである産業廃棄物を捨てるように、人間が人間を捨てはじめたのだろうか。
能力がなく、役に立たず、なんの価値も生まない人間はじゃまだ、目ざわりだ、不幸な存在だという意識が、社会の低層にどっしりと根を張ってしまったのだろうか。
現代の姥捨て・・・いま、一人の赤ちゃんの命が、ひっそり抹殺されようとしている。
赤ちゃんはなぜ生きることを阻まれるのか、そもそも人間が生きるとはどういうことなのかー

「ただ生きるだけ、ひたすら命ある限る生きてはいけないのか?」命、人間の価値とは?さまざまに問いかけられる本である。

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テレビは枕もとの棚にあったが、大晦日の紅白歌合戦は見ることができなかった。まだそこまで状況は改善されていなかった。耳の中では虫たちが大合奏し、常に揺らぎがあり、頭がすっきるするということはなかった。6年経った今日に至っても、少なからずこの状態は続いている。意思とは反対方向に体が傾いてしまうのである。体調がいまいちな時は、文字がどうしても大きくうねうねし、整った小さい文字を書くことができない。三半規管のいたずらなのだが…こればっかりは、いまだにどうしようもないのである。

1月2日、ちょっとつけて見ようかとテレビカードを入れると、偶然眼にしたのが『箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)』だった。
テレビ画面にあふれる若さ、勇気、希望、情熱、闘魂、1区から10区まで10人で共働して2日と3日、2日間かけてただひたすらに走る。美しい。素晴らしい。感動しながらとうとう2日間箱根駅伝を見続けた。
これが、私の転機となった。「こうしてはいられない。私を待ってる人たちが居る。以前のように活動したい」と思った。

私は転居する前、40代からの十数年マラソン会に入って、毎朝のように能代市の風の松原や落合浜の海辺をジョギングしていた。仲間と5~10㎞走ってから出勤し、爽快感をもって仕事をしていた。そんな私だったから体が『箱根駅伝』に共振した。『斎藤茂男 現代を歩く』にも触発された。私の心はベッドから立ち上がった。
心がベッドから立ち上がったといって、実際は歩けるわけでなかった。歩行器をベットの側に入れてもらいそれに掴まって歩くことからはじめた。
お正月過ぎ、部屋の外、廊下に出ただけで社会の風を浴びた気がした。うれしかった。自分の普段の生活を取り戻すことが当座の目標になった。

朝目覚めると、歩行器に掴まって廊下を歩いてみた。ところが驚いたことに廊下を十数メートル歩くだけで、心臓がバクバクだった。めまいで歩けないのではなく、心臓が苦しくて歩けなかった。
私は20代、腰椎椎間板ヘルニアで手術を受けて1か月余り寝たきり生活をし、やはり歩行訓練で歩き始めたとき、心臓がバクバクして歩けないということはなかった。あの時は、自分の上半身を形取った型に入り、食事はトレーを自分の胸の上に置いて食べた。毎日マッサージ師から足を曲げ伸ばしと大腿から足首、つま先までマッサージを受けていた。だから、ベッド生活で気をつけたのは自分で寝ながら足の運動をすることだった。

何が違うのだろうか?

それはまさしく年齢の違いであった。高齢者になってからの入院は、寝たきり状態になったとき、ものすごい勢いで体から筋力が奪われてしまうことを実感した。
私が今まで見たことがないほど足がスラッとしていた。腕は少し痩せてはいたが、足がこんなに細るとは!歩かないうちに足の筋肉が筋肉自らを不要と見なした結果だった。筋肉も骨も重力を必要としている、地上に重力に抗して立ってるから、健康でいられることを身をもって体験した。

医師に「マリコさん、体を動かしていますか?」と聞かれて、「足の体操をしてます」と答えていたが、そんな簡単な足の体操で済む問題ではなかった。その時、全く事の重大さに気づいていなかった。自分の足で歩くということが、生活のクオリティを保つ第一条件であると認識していたが、まさか自分の足が弱り歩けなくなるなど思いもよらなかった。
何故なら、私は耳の三半規管にヘルペスができて治療を受けるため入院したのだったから。

「こうしてはいられない!」私は、はじめは看護師詰所まで歩行器に掴まって歩くのがぎりぎりだったが、次第に距離を延ばし、病院内を散歩できるようになった。
間もなく歩行器からも離れて、ふらふらだったが一人で歩けるようになった。うれしかった。毎日病院のコンビニに買い物に出かけた。花屋さんにも毎日寄った。小さな買い物をして気晴らししていた。自販機からアイスクリームを買って食べるのが散歩の楽しみになった。途中で一休みしないと歩けなかった。患者が集まるテレビがついてる休息ルームにも行けるようになった。

その休息ルームの小さな図書コーナーで見つけたのが、内藤泰子さんの著書『カンボジア わが愛』だった。
1970年代カンボジアでは、赤いクメール・ルージュ(ポル・ポト派)共産政権(1975年)が、知識階級や支配層(新旧)を徹底的に処刑し、また市民を強制的に都市から追い出し、地方の農村地帯の荒れ地でろくに食事も休息も与えず強制労働をさせて市民を飢え死にさせた。
カンボジア外交官ソー・タンランさんと23歳で国際結婚した内藤泰子さんは、当時39歳になり5人家族で暮らしていたが、大量虐殺と極端な最悪逆境の中で、長男や最後は力尽きた夫のソーさんを失い、奇跡的に生き延び、たった一人で日本へ生還された方である。

当時私は空っぽになったプノンペン市内がテレビに映っていて、ポル・ポトという一人の男の原始共産主義の狂気が、知識人支配層に対する憎悪により国を破壊しつくしてるのを見て、震撼とした。ポルポトは、支配階級・知識階級に対し羨望と敵意や生活に不満を持つ田舎の青年たちを兵士に組織した。政権のやり方は残虐を極め、人、都市、文化を徹底的に破壊尽くした。
内戦の中で運不運に翻弄されながら、惨状の中を生き延びて来られた内藤泰子さんの果敢な勇気と智慧と『不屈の魂』に脱帽した。
サスペンス小説をはるかに超え、ハラハラドキドキする現実の記録である。内藤泰子さんは1992年8月30日、乳がんで惜しくも亡くなられている。生きて居られたらお会いしに行きたい方だった。

この内藤泰子さんの『不屈の魂』に私は呼びかけられた。

   
     宮沢賢治  補遺詩編

      〔肺 炎〕

   この蒼いぐらい巨おおきな室(へや)が
   どうして俺の肺なのだろう
   
   そこでひがんだ小学校の教師らが
   もう4時間もぶつぶつ会議を続けてゐる
   ぽむぷはぽむぷでがたぴし云ふ
    
   手足はまるでありかもなにもからない
   もうそんなものはみんなおれではないらしい
   ただまあ辛くもこう思うのはおれなだけ

   なにを!思うのは思うだけ
   おれだか何だかわかったもんか
   それならおれがないかと云えば……
   何を糞(くそ)! いまごろそんな

(3)へ続く
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2014-02-04 03:00 | カテゴリ:リハビリ