いま、私は一人前に行動できること、普通にカバンや荷物を持って歩けることを最高の幸せに感じている。私は6年前の1月21日に、51日ぶりに外へ出て、冬の冷気を体に感じ、再び自由を得られたことに感謝した。以下は私のリハビリ記です。

スーパーの駐車場を通りながら、iポットの音楽を聴こうとしたら、左耳が全然聞こえなくて、イヤーホンが壊れたのだ、新しいのを買わなければと思っていた。
それから、ある夜、左耳が突然、キリで刺されたような痛みに襲われ目を覚ました。「痛い!痛い!何という痛みだろう!朝起きたらすぐ病院に行かなければ」。ところが朝目覚めると、ケロッと痛みが消えていた。「何だ一時的な神経による痛みだったんだ。よかった」。そして、私はその激痛の夜のことを忘れて、過ごしていた。

12月に入った夜、私は寝室からトイレに行こうとして、廊下が船のように揺れて、廊下の両側の壁にぶつかり、「自分がどうなってしまったのだろう変だ!」まるで酔っ払いの千鳥足だ。そう思ったと同時に、激しい吐き気がこみ上げてきて、嘔吐した。
トイレの前から移動しようとしても、めまいと吐き気で動けない。「なんだ?これは?私が病気になってしまったの?」理解不能だった。

もう夜が明けはじめていた。激しいめまいで着替えもできない私はパジャマにガウンを羽織って、夫の車で赤十字病院の救急へ行く。「耳のヘルペスですね」医師は慣れた手つきで私の耳を診て言った。「耳の三半規管にヘルペスが!」あれはイヤーホンが駄目になっていたのではなく、私の左耳が聞こえなくなっていたのだ。あの夜の耳の激痛もヘルペスのせいだったのだ。私は愕然とした。
「このまま入院してください」「耳ぐらいで入院?」私はまだ自分の状況が掴めていなかった。

入院したとたん、退院の日が気になっていた。私は秋田の男女共同参画センターがNPOに委託される機会に、そのNPOの理事になり、且つ事業としてDV防止講座『女性と子どものSOSが聞こえますか?』の講師を務めることになっていたからである。
1週間くらい入院することになった。講座の開催日ぎりぎりに退院が決まった。だが、退院の朝、またキリで刺されるような痛みが発生していた。「一時的かもしれない。このまま退院しようか」。しかし、現実は私の想いと裏腹に痛みと同時にめまいも酷くなりつつあった。また酔っ払い歩きだ。困ったな。それまで、私はいつも自分の病気を「大したことがない」と過小評価し大ごとになり、何回か入院体験をしていた。「ほんとのことを言った方が良いのかも知れない」医師に耳の痛みを伝えると、退院許可は即座に取り消され、一時外出許可に変更された。

講座の資料は、入院前にほぼできていたが、残った一部分を病院のコンビニの印刷機で刷った。パソコンが使えないため手作業による切り貼り作成で、余り良い出来ではなかったが、仕方なかった。
講座の出席者は受講者の半数の方が、私がお誘いした方々だった。無理して今日出てきてよかったと思った。アンケートの反応も良かった。

一人でも多くの人に、夫婦間あるいは恋人間のドメステックバイオレンス(DV)の現実を知ってほしかった。何しろ女性の3人に1人が被害を受けているのだから、DV被害を受けて沈黙している女性が、ご自分の周りに必ずいることに気づいて、手を差し伸べてほしいという願いを込めた講座にした。
講座を終わって、NPOの振り返りの会に出席する余裕はなかった。凍てつく寒さの中を夫の車で病院へ直行した。それが、その後の過酷な日々の始まりだった。

一緒に入院してくれたピンクのうさぎのふあちゃん。
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講演を終わって再び病院のベッドに戻った私は、その夜から、天地が逆になるめまいと激しい嘔吐に襲われ、入眠剤を飲んでも眠ることもままならない日々が続いた。ベッドの上で目玉を動かしただけで、めまいを起こして吐いた。
昼夜点滴が行われた。体を起こすと激しく吐くので、一人でベッドから降りることもできなくなり人手を必要とした。下着の着脱ぎも困難だった。何もできない。こんなことに何故なるの!怒りと悲しみが込み上げ泣いた。このままめまいの人生を生きるのは辛すぎる。

折角、苦労して取得した日本フェミニストカウンセリング学会認定フェミニストカウンセラーの資格も生かせないまま終わるかと思うと、口惜しかった。
「こんな人生は嫌だ!死んだ方がまし!」看護師さんに言った一言で、ドグマチール(抗鬱剤)が処方された。私は希死念慮は持ってなかったので、薬は飲まなかった。
ただ、やっぱりよく涙が出ていたので、先生や看護師さんが心配したのかも知れない。

そんなある日、若い医師が「マリコさんはどんなお仕事しているの?」と聞いてきたので、「DV被害当事者の方の支援をしてます」と答えると、「大変な仕事だね。ヘルペスはストレスで体力が弱ったとき出るからね」と仰る。
「体力的に限界が来てるということなのか、免疫力が極端に落ちているのだ」と思うと、泣いてしまった。先生は私が泣き止むまで、私の手を握っていてくれた。職業的自然な行為だったかもしれないが 、あの時の先生の優しさには、今も感謝している。

昼夜構わず「あぁ・うぅ・えぇ・おぉ」と嘔吐した。声にならない声、悲鳴が病室中に響いた。夫が時間がある限りお昼頃から夜まで付き添ってくれた。夫が居ないときは、ブザーで看護師さんを呼び介助してもらった。みなさん、嫌な顔一つせず駆け付けてくれて、嘔吐が止むまで背中を撫で、トイレまで歩くのに、私を後ろから抱きかかえるように体を支えてくれた。個室だったので、トイレまで4~5mの距離だったが、天地逆転めまいのため歩くことができなかった。パンツの上げ下げはもちろん、すべて人手を要した。

「5+2=?」→「7」・「5-1=?」→「4」。「そんな簡単なこと分かってるよ!」「ボケてなんかいないよ!」。笑える状況だなと心に抵抗が起きていたが、私は病人・患者の身、素直に答えるよりなかった。
医師は私の眼や頭(脳)にヘルペスが生じないか危惧していた。耳から眼も脳も近場なのだから私自身も心配はしていた。しかし、心配したところで私が主体的にどうにかできることではなかった。脳や眼にヘルペスが転移しないための治療が適切に行われてると信じていた。「そのときはその時、考えればいい。何とかなる、なるようになる」と思っていた。

さすがに一日何度もブザーで呼ぶので、看護師さんたちも大変だったんだろう、「オムツをしますか?」「しません」と拒否したが何度もいわれた。それはあり得ない。私の尊厳にかかわる大問題なのだが、看護師さんたちはいとも簡単に口にした。私は全く弱者の立場だった。このような状況で、気弱な患者は医師と看護師に迷惑をかけたくないと考え要求通りにオムツをし、やがて、自尊心を奪われていくのだと思った。

なかよしMiffyちゃんたち。
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私は卯年生まれ、その私の耳が聞こえなくなるなんて、思いもしないことでした。

こんな状況でも、年の暮れ、私は少しづつ回復し始めた。夫がお見舞いに持ってきてくれた籠に盛られたピンクの花々が、私の慰めになった。


  宮沢賢治 「疾  中」(しっちゅう)より

     〔 眼にていう 〕

  だめでせう
  とまりませんな
  がぶがぶ湧(わ)いてゐるのですから
  ゆふべからねむらず血もでつづけなもんですから
  そこらは青くしんしんとして
  どうも間もなく死にさうです

  けれどもなんといい風でせう
  もう晴明が近いので
  あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
  きれいな風が来るですな

  もみぢのわか芽と毛のやうな花に
  秋草のやうな波をたて
  焼痕(やけあと)のある藺草(ゐぐさ)のむしろも青いです

  あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
  黒いフロックコートを召して
  こんなに本気に手あてもしていただければ
  これで死んでもまづは文句はありません

  血がでてゐるのにかかわらず
  こんなにのんきに苦しくないのは
  魂魄(こんぱく)なかばからだをはなれたからですかな
  ただどうも血のために
  それが云えないがひどいです

  あなたの方からみたらずいぶんさんたんたるけしきでせうが
  わたくしから見えるのは
  やっぱりきれいな青ぞらと
  すきとほった風ばかりです。

(2)へ続く
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2014-01-31 23:52 | カテゴリ:リハビリ