☆「野の花日記」の写真はワンクリックすると拡大してご覧いただけます。

2月21日、雪が降ってましたが散歩に出ました。さすがの私も真正面から吹き付ける雪に、怖気(おじけ)づき、公園の中を歩く気にはなれませんでした。この公園は開発公社と市民である私たちとが共同で考え設計した公園です。

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公園から戻る途中、吹雪の中で、住宅団地を造成するため働いてる車がありました。男性が3人凍てつく厳しい寒さの中で働いていました。ミキサー車では男性が水で車を洗っていました。頭が下がりますね。

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23日未明け、17日間にわたって、世界中から集まった若者たちが速さと力と技を競ったソチオリンピックも、とうとう終わりましたね。写真は真ん中のぬいぐるみのクマさんが丸い器に入ってるオリンピックの火を吹き消すところです。この後、一気に外の聖火台の火が消えました。

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聖火台のオリンピックの炎が消えて・・・はじまったことは終わるんですね。炎の消えた聖火台は、赤い色から青い色に変わりました。なんだか淋しいですね。

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オリンピックは終わり、子どもたちの未来に夢を託し、真に平和な世界が実現できるよう、大人が努力しなければならないのですよね。

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またまた、私のリハビリ日記に戻りますね。
私は主治医に「マリコさん、長くなって申し訳ないです」と、何度か詫びられた。「1週間位の入院でいいでしょう」が、めまいで入院が51日間にも及んだのは、医師のせいではなく、三半規管へのダメージが酷すぎたからであり、私は必要な入院だったと今も思っている。
「この病気は治りません。しかし、機能を使うことで、新しくシナプスがつながり回復する可能性はあります」医師が言った。私は希望が持てた。あとは自分次第だと。楽しくリハビリしよう。決して諦めないぞ!!
以前、私は足の静脈瘤手術をしていて、手術した静脈が閉鎖されても、他の細い静脈がバイパスの役割を果たし、全く弊害はなかったという経験をしていた。

私は、体は自らの力で回復する。大事なのは治ろうとする意思、生き延びたいという希望であると思っている。体には自ら体に生じた異常事態を元に戻そうとする恒常性と自然治癒力があるからである。
こういう私の考えに強い影響を与えた本を紹介します。

この本は、平成元年11月に発行された初版本(日本教文社発行)である。
第Ⅰ部 生きる姿勢を変える 第一章 幻滅 第二章 混乱 第三章 制御
第Ⅱ部 心臓と循環器の病気 第四章 心臓と心 第五章 狭心症 第六章 心臓発作               第七章 高血圧
第Ⅱ部 医学の謎   第八章 関節炎 第九章 糖尿病 第十章 腎臓病 
           第十一章 片頭痛 第十二章 多発性硬化症
第Ⅳ部 癌      第十三章 手術 第十四章 放射線治療 第十五章 化学療法               第十六章 癌の制圧 第十七章 健康への意思
第Ⅴ部 結論     第十八章 人格の統一性

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 <本文 P169、P170 より引用>
 アメリカの作家ノーマン・カズンズは『五〇〇分の一の奇跡』(講談社)の中で、プエルトリコの家に巨匠パブロ・カルロスが90歳の誕生日を迎える、2,3週間前に訪問したことが書かれている。
パブロス氏はリューマチ性関節炎を患い、夫人の腕にすがり、腰は深く曲がり、足を引きずって歩いていた。手は腫れ、指は固く握りしめられていた。そんな状態だったが、朝食前ピアノのところに行き、苦労しながら椅子に腰かけた。

 ☆これから起ころうとしている奇跡を私は全く予想していなかった。握りしめられた指はゆっくりと開き、植物の芽が日の光に向かって伸びるように鍵盤の方へ伸びて行った。背筋は伸ばされた。今では前よりも楽に呼吸をしているように見えた。ついに指が鍵盤の上におかれた。そして聞こえてきたのはバッハの《平均律クラヴィーア曲集》の冒頭で、まことに神経細やかな、非常に抑制された演奏だった。
パブロ氏はチェロ奏者になる前に、いくつかの楽器を手がけ、熟達した腕前になっていたことを思い出した。ピアノを弾きながらハミングしていた氏は、バッハが私に語りかけています、と言いながら、胸のあたりに手をやった。
 そのあと突然ブラームスの協奏曲を弾きはじめた。一転して軽快で力強くなった指は、目も眩むような速さで鍵盤のうえを駆けめぐった。体全体が音楽と溶け合って一体化しているかのようであり、こわばったり縮こんだりしているところはもはや見えず、しなやかで優雅であり、関節炎の束縛から完全に解放されていた。☆

 カルザスの場合創造性が自らのコーチゾンを生み出す源泉だった。(中略)……カルザスは自分の創造性の中に、そして特定の目的を達成したいという欲求の中に埋没していたのであり、それから生ずる効果は真実であるとともに誰の目にも明らかだった。

 また、ノーマン・カズンズ氏自身が米ソ文化交流を図るためアメリカ側代表団長として、ソ連を訪れ、まことに意に満たないきついスケジュールをこなし、帰国後、体の自由がきかない病気になってしまった。病気のどん底の時は顎がほとんど動かなくなり、手足を動かすのは難儀で、寝返りを打つことさえできなかった。専門医は完全に回復する見込みは「五00分に一つしかない」と言われた。カズンズ氏はこの診断をつっぱね、ホームドクターの協力を得て、結合組織がどんどん破壊されていくのを食い止める力を取り戻すことにした。(P171参照)

 この後、カズンズ氏は病院を出てホテルに入った。病院で処方された薬を止め、そのかわりに、いろいろなやり方で自分を笑わせることにした。面白いビデオを見たり、茶目っ気のある本を読んだりした。10分ほど笑いころげると痛みに煩わされることもなく2時間ほど眠ることができた。熱も徐々に引いていき、脈拍は減少し、のたうち回るほどの痛みが消えた。そして数か月後には仕事に復帰することも可能になったのである。(P172参照)

 結論は、死に憧れないこと。未来に希望をもって生きようとすることです。
死は私たちが生きることにひるんだとき、ここぞとばかり、あらゆる手段(自殺を含め病気になるための自殺的行為)を用いて私たちを死へ連れ去ろうとするのではないでしょうか。
生につながるためには生きる意志こそ重要なのだと思います。
自然の中でこの一瞬の命を生かされてることに感謝し、自分自身の生活を楽しく喜びのあるものにすることが、きっと私の命を永らえさ、豊かなものにしてくれるだろう……「全くの楽観主義」ですが、私がこの本から学んだことです。

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私は退院を急いでいた。大潟村(男女共同参画)主催の『自分らしく生きる』のシンポジストとして参加することになっていたからである。そこで、私がなぜDV被害者支援に至ったのか話すことになっていた。1月23日、その日は迫っていた。
また、病院のコンビニで資料コピーをしていると、主治医が「マリコさん、何してるの?」と訊かれる。「シンポジュウムの資料を作ってます」「そういう目標があるのは、回復に役立つ、いいね」と言ってくれた。
退院は、男女共同参画シンポジュウムに間に合わせて決められた。まだめまいは著しく、普通に歩くことは困難だった。

私はシンポジュウム当日、吹雪の中を夫から送ってもらって会場に向かった。大潟村の会場は公民館の2階にあった。長い階段が目に入った。エレベーターはない。階段の手すりに掴まりようやく登った。開会の前、秋田県の制度である、認定秋田県男女共同参画推員(大潟村の)と準備委員の方と親交を深めるため、昼食を共にすることになっていた。案内されたのは和室だった。ロングブーツを脱ぐのも履くのも一大事だった。それに畳・・・座るのは最も苦手だった。膝が折れないうえ、お尻の筋肉が激減し、座ると尾てい骨あたりが痛いあり様で長く座ってることはできなかった。
幸い、講演会場は洋室だった。胸を撫で下ろした。鞄を持つと持った鞄の方向に転びそうになり会場の廊下もようやく歩いた。
 
シンポジュウムには男性が数名参加していた。男性に解ってもらえるのか、男性はDV加害者である場合があるので、話しにくさが生じた。シンポが終わると、何人かの女性が近づいてきて「秋田でもDV被害者支援をしてる方がいるんですね。初めて知った」と言われ握手を求められた。私はその方たちに、持参して来ていた秋田ウィメンズネットの『あうん通信』とパンフレットをお渡しした。
一人でも多くの人に「DVがどういう暴力であり、どんな支援が求められているか」「女性が不当な暴力を受け、自分らしく生きることができない」こと、「DVは女性への人権侵害である」こと、「DVは犯罪であり赦してはならない」こと、「3人に1人の女性が被害にあってる」ことを知ってもらいたいといつも思っている。諸悪の根源に「差別」があり、「暴力」があることに気づいてほしい。DV被害を受けたことにより心身が壊れかけた多数の女性にあってきた私は、一人ひとりの女性が、一人前を自分らしく生きてほしいと心から願わずにいられない。

反省会がお茶をしながら和室で開くことになっていたが、私は体力的に限界があり帰ることにした。秋田男女共同参画副センター長には私の病気をほとんど理解してなく、「なんで帰るの?」と訝られた。私は退院したばかりであり、答える気も余力もなかった。
その後、秋田県男女共同参画推進員(一人の方は秋田宮沢賢治愛好会会員、もう一人は秋田ウィメンズネット運営委員)のお二人が鞄をもって夫が迎えに来てくれた車まで送ってきてくれた。
この日、私の不自由さを支えてくれた皆さんに心から感謝です。悪天の中、夫が午前と午後大潟村まで往復してくれたことにも感謝です。皆さまのお蔭で無事シンポジストとして責任を果たせたこと、今も有難く思っています。


   宮沢賢治 「疾  中」(しっちゅう)より

     〔 夜 〕

   これで二時間
   咽喉(のど)からの血は止まらない
   
   おもてはもう人もあるかず
   樹(き)などしずかに息してめぐむ春の夜
   こここそ春の道場で
   菩薩(ぼさつ)は億の身をも棄(す)て
   諸仏(しょぶつ)はここに涅槃(ねはん)し給(たま)う故(ゆえ)

   こんやはもうここで誰(だれ)にも見られず
   ひとり死んでもいいのだと
   いくたびさうも考(かんがへ)をきめ
   自分で自分に教へながら
   
   またなまぬるく
   あたらしい血が湧(わ)くたび
   なほほのじろくわたしはおびえる

 ☆賢治さんの心細さ、どんなに生き続けたかったろうかと思うと、涙が出ます。

(5)へ続く
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2014-02-27 14:02 | カテゴリ:リハビリ
2月7日(金)からはじまったソチオリンピックも23日(日)まで後、残すところ2日となりましたね。

古代オリンピックは戦争であまりにも人的資源(命を落す)を失うため、戦争を一時休戦してお互いの国が力を競い合う祭典、オリンピックを考え出したと言われてます。場所はギリシャのオリンピアでした。紀元前8世紀のことです。日本は縄文時代ですね。最初の競技は人が走る競争でしたが、後に短距離競走、幅跳び、円盤投げ、やり投げ、レスリング等の5種競技や長距離競争、ボクシング、戦車競走などの種目が加えられたのだそうです。この競技内容は当時の戦争そのものですね。

1500年もの長い間オリンピックの火は途絶えていましたが、フランスのクーベルタン男爵の努力により、1896年第一回近代オリンピックがギリシャのアテネで「世界平和を目的とする」スポーツの祭典として開かれるようになったのでした。人間の闘争心の平和利用、それがオリンピックなのですね。
世界大戦による開催中止、1970年代から80年代には、人種問題や冷戦によるボイコットが起こる大会が多かったのですが、近年はすべての国が参加するようになってきました。「平和の祭典オリンピック」も、激しく政治に左右されてるのですね。

国際オリンピック委員会[IOC]の資料によると、1896年、第1回アテネ大会(ギリシャ)は参加国14、参加人数241人、女性の参加は0でした。
2008年、北京大会(中国)は参加国204、参加人数10,942人、女性の参加は4,637人と、女性の参加が40%を超えたのでした。
なお、2014年、ロンドン大会(英国)には204カ国参加すべての国から女性選手が参加した記念すべき大会となったのでした。
女性が走るだけで、奇異に見られ、阻害されてた時代と隔世の感があり、女性選手たちの果敢に戦う選手の姿に、オリンピックにおいては、表面的には女性差別がなくなってきてると感じてます。

冬季オリンピックは1924年シャモニー・モンブランでは参加国16カ国、2014年のソチ開会式では参加国87カ国でしたが、閉会式では参加国にインドが加わり88本の参加国の旗が行進してました。政治の動きがあったのですね。

私はライブは時々しか見なかったのですが、それでも、力の限りすべてをかけてチャレンジする選手たちの輝きと強さに感動をもらいました。

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お正月が終わると、すぐお店にお雛様が飾られはじめ・・・そろそろひな祭り行事としてお雛様を写真に収めようと思って行くと、もう五月の節句、武者人形が飾られていました。気の早いことで。商売は常に先手先手を打たなければならないのですね。

女の子の節句(3月3日)、男の子の節句は(5月5日)とこれは不変ですね。変わったのは5月1日のメーデーと1月15日の成人式です。私はいまだにメーデーと成人式がいつなのか分からない年があります。これは私だけの問題なのでしょうけれど。

女の子は今までの規範は素直で優しく美しくでしたが、今どきの女の子は強く優しく諦めない子に育ってほしいですね。
わが家では娘のお雛様、箱に入ったままになっています。ぼんぼりと内裏雛だけでも飾ろうかしら。お雛様って雅で美しいですね。お店のお雛様は高級なものは既に売り切れていました。

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男の子はリーダーシップを取り天下人になれ。兜をかぶりいざ!闘え!でしょうか?
人間も人類誕生以来、闘ってきたから生き延びることができてるのですよね。長い長い気が遠くなるほど長い歳月を経て、私たちの脳には「戦う」「相手(敵)を負かす」「勝つ」という闘争心がプログラムされてるのだと思います。

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男は逞しく、泣きごとなど言わない。それで苦しみに追い詰められると、誰にも助けを求めず黙って自殺するのでしょうか?兜や武者人形を求めた人は子どもや孫に伝えてほしいですね。「男も弱音を吐いていいんだよ。泣いていいんだよ」「苦しいときは誰かに勇気を出して相談して、助けを求めていいんだよ」「一番大事なのはあなたのかけがえのない命だよ」ということを。

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私のリハビリについて話す前に、私に大きな影響を与えた姉のリハビリについて少し書きますね。
このパッチワークは私の姉の作品です。私の姉は10年以上前、1回目の脳梗塞で開頭手術をし回復してました。
2回目の脳梗塞は長嶋茂雄さんが倒れる少し前でしたが、長嶋さんと同じ「心原性脳塞栓症」と診断されました。ただ、2階にいた次女が会社へ出勤前、階下から「う~~~ん!う~~~ん!」という異様な唸り声を聞きとめ、駆け付けたところ、台所で倒れている母親を発見して、すぐ救急車を呼び、病院へ運んだのが幸いしました。病院へ着くまでの所要時間は約1時間でした。この迅速な行動が姉を右半身マヒの重症化から救う結果となったのでした。

長嶋さんは病院へ行くまで6時間の時間を経過してました。車の中でいびきをかいて寝ている長嶋さんを「疲れてるんだな」と、運転手さんはそのまま休ませておいたのでした。今も長嶋さんの右手はポケットの中です。発見が早ければと、非常に残念に思っています。

治療も進歩を遂げ、開頭手術をしないで、点滴と薬による治療でした。私がお見舞いに駆け付けたとき、右半身は麻痺し歩行困難、右手に特殊なスプーンをもって食事をしてました。

退院後、姉は思い通りに動かない、力の入らない手で包丁を持ちきゅうりを切り、薄く切ることはできないので,ゴロゴロ切られたきゅうりの酢の物や煮物をごちそうしてくれました。見ていられなくて「私がやろうか」と言うと、「マリコ、いいの、いいの、これは私のリハビリだから」と断られました。
姉はミシンであれこれを作るのも好きで、パッチワークは先生について習い、得意でした。

私は当時、よく上京してました。毎週ということもあり、その度に姉を見舞っていました。姉はあまり外へ出歩くことを「格好悪いから」と避けていました。
「姉さん。このまま家に閉じこもり、座敷牢の人になるの?恥ずかしくなんかないよ。外へ出よう」と誘うと、姉は意外に素直に地域の公民館施設で開いている、リハビリ手工芸教室へ迎えに来たバスに乗り通いだしたのです。はじめは割り箸や折り紙でできた作品を、「これ作ったよ」と部屋に飾っていました。それは幼稚園児並の稚拙な作品でした。手が不自由なのですから当然ですが、私は「よくできたね」と褒めると、姉はとても喜んでくれました。

縫ってきた雑巾は、とんでもない方向に針目が曲がり、針目も2cmもあるというものでした。「おかしいね」二人であまりの酷さに吹き出し笑いこけたりしていました。「姉さん大丈夫だよ、そのうちちゃんと縫えるようになるから」と私は励まし役に徹していました。姉は再びパッチワークをしたいという希望を持ち、雑巾作りに励みました。次第に針目が整い、やがてパッチワークにチャレンジするようになり、小さな作品をいくつも作りました。後に次女のベッドカバーも完成しました。

下のパッチワークは「6年かかったよ」と、昨年クリスマス前上京した時、羽田まで見送りに来てくれた姉が私にプレゼントしてくれたものです。「ふちを赤にするか緑にするか1年も迷ったからね」と姉は笑った。これまでになるまでの姉の苦労と負けじ魂に脱帽し、有難くいただいたのでした。

ある日、駅の階段の手すりに掴まりようやく登っていた姉を、姉が元気なとき勤めていた新宿へ「行ってみない?」と、誘ってみましが、「無理、あの人混みの中で転倒しそうで怖い」とあっさり却下されました。
それでも、品川の原美術館、竹橋の東京国立近代美術館、上野の森美術館、国立西洋美術館、東京都美術館など美術館巡りをして一緒にご飯を食べたり、買い物をしたりしていました。私たちは、きょうだいが二人でいられる時間を思いっきり楽しみました。

その日は何処をどうしたものか、道を間違い、電車を間違い、なんと二人の万歩計は13,000歩を記録してました。私たちは、疲れたけれど大いに満足し笑いあいました。「こんなに歩けた!」姉はこれを機会に自信がついて、旅行にも出かけるようになったのです。

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写真はテレビのライブ映像です。ソチ5,000m男子スピードスケート競技です。私はこれを品プリで見て、選手たちの大腿の筋肉の太さに見とれてしまいました。筋肉はパワーなんですね。パワーを爆発させて走る姿は素晴らしいですね。美しいですね。

話を「リハビリと私」に戻しますね。
私は耳のヘルペスで入院し、体中の筋肉を失い、限りなく体力を失っていたことに退院後気づきました。缶コーヒーのタブを自分で開けることができませんでした。もちろんペットボトルの蓋も無理でした。歩くと足のアキレス腱と下腿の後ろ、大腿の後ろ、足の付け根が痛みました。歩くとあんなに呼吸が苦しくハアハアしたのは、心筋も弱っていたのでしょう。
なぜこうも筋肉をなくしたのか、考えてみました。原因は微熱(37,5℃)がつづき、吐きまくったこと、栄養が取れなかったこと、天と地が逆転するめまいのためトイレ以外はほとんど寝ていたからでした。

体重は5k減っていました。脂肪や水分だけではなく筋肉と骨量が減っていたのですね。周囲の人に「マリコさん、体が小さくなったね」と、驚かれました。洋服のサイズが11号から9号に変わりました。耳の三半規管にヘルペスができた、このただ一つの病気が私の骨身を削ったのです。

人も動物です。自分たちのことをホモサピエンスなど最も優れた種と名付けていますが、野山を駆け廻って食物を得て生きてきたのですから、体を動かすということが、生きて行くうえでの基本なのですね。
頭ばかり使っていてはダメなんですね。同じく体も動かして使ってないと、脳は体のあらゆる運動器(筋肉をはじめ骨、間接、軟骨、椎間板等)を不要と認識し、動くことを節約してしまうんですね。これによって歩行障害が起こり日常生活に困難を生じてしまうのです。これをロコモティブシンドローム(通称ロコモ)といいますが、聞いたことがありますか?

ロコモは高齢者がかかる運動障害なのです。移動困難から日常生活はもちろん、社会活動が狭められ、社会参加ができなくなります。高齢者は自分の健康寿命を延ばすために、是非「ロコモ=廃用性疾患」について知識を持つことが必要だと思います。
高齢になり病気になって寝込むと、坂を転げるように障害が連鎖して起こってくることを痛感しました。恐ろしいですね。

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真冬日が続いています。玄関先で雪や風に晒され、半分凍りながらパンジーとビオラが健気に咲いてます。日差しが少しでも差し込むと太陽の光を求めて顔をあげる姿は、サバイバルして生き抜く植物の強さを感じます。

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    宮沢賢治  「疾  中」 しっちゅうより

      〔風がおもてで呼んでいる〕

    風がおもてで呼んでいゐる
    「さあ起きて
    赤いシャツと
    いつものぼろぼろの外套(ぐわいたう)を着て
    早く表へ出てくるんだ」と
    風が交々(こもごも)叫(さけ)んでゐる

    「おれたちはみな
    おまへが出るのを迎へるために
    おまへのすきなみぞれの粒(つぶ)を
    横ぞっぽうに飛ばしてゐる
    
    おまへも早く飛び出して来て
    あすこの稜(かど)ある巌(いは)の上
    葉のない黒い林のなかで
    うつくしいソプラノをもった
    おれたちのなかのひとりと
    約束通り結婚しろ」と

    繰(く)り返し繰り返し
    風がおもてで叫んでゐる

 (4)へ続く

2014-02-21 10:27 | カテゴリ:リハビリ
2月14日、潟上市天王のブルーメッセで開催されている「世界らんフェア」を観に行きました。太平洋側関東地方に大雪をもたらしていますが、秋田はこのように殆ど雪がありません。
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ブルーメッセに到着すると目についたのは、建物の屋根から下がる長いつららでした。
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世界らん展にしては、つつましい入口。
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寒い外から中に入ると、色とりどりの可愛い蘭が並んでいました。販売用です。
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こちらも見事な蘭たちが。販売用です。
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天井に届かんばかりの蘭が。圧倒されました。
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ブルーメッセで働く人たちで作り上げたとききました。素晴らしいですね。
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可愛い小人たちが遊んでいます。全部男性の小人?どうしてかな?
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普段着のブルーメッセ、いつもはこんな感じです。ここで一休み。「自販機はないの?」「めっ!そんなものありません」。
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冬の朝、こんな花に囲まれて目覚めたら、素敵ですね。ちょっと夢見る・・・。
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黄色って元気が出ますね。地球上では黄色い花が一番多いんですって。
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強烈な色の蘭を見た後、花が咲いてないサボテンに癒されました。
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こんな恰好した父ちゃん&母ちゃんを見かけることはなくなりましたね。おじいちゃんは探せば居るかも?お土産売り場で。
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わが家の君子蘭です。わが家へ来てから20数年になります。植物って長生きですね。少し寒さに晒した後、和室の出窓においたら、咲いてくれました。ちゃんと手入れをすると、葉もこんなに乱れないのですが、置きっぱなしだから伸び放題です。こけしたちにも集まってもらいました。
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2014-02-17 15:31 | カテゴリ:日記
2月5日(水)昼、秋田市内に向かう途中猛吹雪にあいました。車の前方が全く見えないのです。というのは、前を走っている車が見えないので、車はスピードをぐんと落として走ります。スピードを落しすぎてると追突事故に遭う恐れもあり、ほんとうに運転者は神経ピリピリです。
この道路に、防風防雪フェンスが備えられてから、こんなことはあまりなかったのですが。10年前は道路が全く見えなくなり追突したり、田んぼに落ちたり、除雪してある雪に突っ込む車が結構ありました。

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同じ道路でも、猛吹雪が吹いてない所です。雪が多い年は、ポールが雪に埋まり、防雪防風フェンスも道路から除雪された雪がうず高く積まれ埋もれてその姿が見えなかったりします。今年は秋田市は雪が少ないです。県南地方の大仙市(花火)、横手市(かまくら祭り)、湯沢市等は今年も大雪に見舞われてます。

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2月8日(土)朝9時頃、上京のため一路秋田空港へ、飛行機は1時間遅れで飛びました。珍しく秋田空港が人だらけでした。
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東の空に白い小さな太陽が。空全体が曇ってる時、さすがに太陽もお月さまのように見えます。
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白一色の羽田空港に到着。午後からは飛行機が全便休便となりました。京急線に乗り品川駅へ向かう途中の蒲田駅の辺りが、雪国そっくりになっていました。この後電車の窓ガラスが結露しはじめ、外が見えにくい状態になりました。
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品川プリンスホテル1F、エントランスホールから見た、雪景色。私もよく上京するようになってから30年余り、こんなに雪が積もってるのを見たのは初めてです。
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品プリ・イーストタワー17Fから品川駅舎と駅前道路を見降ろす。写真ではよく分かりませんが、横殴りの吹雪が吹いていました。午後2時半なのに夕方のように暗くなり、白黒の世界の出現です。
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さらに激しい吹雪になって、午後3時前なのにこの暗さです。駅の向こうのビルがぼんやり影のように見えます。この日の積雪、東京で28㎝、45年ぶりの大雪となったのでした。
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テレビでず~っと、「危険ですから外出を避けるように」と呼びかけていましたが、品川駅のデパートへお弁当を買いに出ました。帰り、タクシー乗り場に行列ができてました。タクシーは見当たりません。このあたりで二人転ぶ人を見かけ、「雪に慣れてないんだなぁ」と思っていたら、タクシー乗り場と反対側のデパートの前で、雪の下の氷で、私の足が一瞬す~っと横滑り、背後で驚いて何人か「きゃあ~!」と叫ぶのが聞こえましたが、私は何とかバランスを取り戻し、転ばずに済みました。「あぁ、よかった♪」胸をなでおろした瞬間でした。雪や氷はあなどれませんね。
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ここは、冬もしゃれたストーブで暖まりながら食事をしたり飲んだりする人で賑わってるのですが、今日はこの通り、ウエーターさん(写真の隅に写ってる人)が雪かきしてました。
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雪が降りしきる品プリのタクシー乗り場。タクシーはいつもここに数台並んでるのですが、今日はみんな出払っています。ホテルの中にタクシー待ちの行列ができてました。
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2月9日(日)朝の6時50分、日本フェミニストカウンセリング学会事務局Aさんから、「今日午後1時から予定していたブロックアプローチ研究会を大雪で交通機関が停まっているため中止にしました」という連絡が入る。「もう東京にいます」「?・・・ごめんなさい」「いいですよ」と答えて、あんまりいい気分ではありませんでした。
「正直者が馬鹿を見ちゃった」と思いました。2月に秋田から上京するのは、新幹線こまちも飛行機も天候次第なので、いつもヒァヒァするから、取りあえず会合に間に合うことを目的に前泊したのでした。「あ~あ~あ!空振り残念でした!」

細い縦長の窓のカーテンを開けると、昨日の雪が止み、さわやかな朝になってました。昨日の吹雪の写真と比較してご覧ください。
では、今日一日東京で遊ぼう♪映画を見てから『クレヨンハウス』へ行ってみよう♪
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『故郷(ふるさと)の 訛(なま)り懐かし 停車場の 人ごみの中 そを聞きに行く』(石川啄木)。品川駅の高輪口へ向かう人ごみの中で、おじさんの秋田のズーズー弁が聞こえてきました。振り向くと「あきた美彩館 秋田県物産品」と、ビニール旗が掲げられている。そこに「男鹿のなまはげ」がデザインされた半纏を着たおじさん二人(県庁職員)「美味しいよ。秋田の味買わないか♪」と、しきりに通行人に呼びかけているではないか。許可をもらってパチリと撮らせてもらいました。
並んでいましたね。いぶりがっこになすの菊花漬、まいたけと串団子が、私、買いそうになったのですが、おみやげが秋田産では格好つかないのに気づいてやめたのでした。
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渋谷駅ハチ公口前のシャーベット状の雪。
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映画を見るため渋谷文化村に来ました。ハーブの花屋さんのウインドウが素敵。大きなショッキング・ピンクのハート♪バレンタインなんですね。手前のウインドウにもハートが二つありますね。なかなか心憎い演出ですね。素晴らしい。

ギャラリーに無料展示の日本画『武士と花』、それに『竹下夢二と伊藤晴雨の 大正ロマンへのノスタルジー』がありましたが、伊藤晴雨の女性を木に縛りつけたり、吊るしたりなど女性の自由を奪う虐待を芸術、美と称してることが気持ち悪く、赦せないので見ませんでした。「男を縛ったり吊るしたらどう?美ですか?」。私は一人悪態をついていました。どちらも見たくない!!人間の尊厳を冒す虐待は美でありません。芸術ではありません。(怒)
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映画は『はじまりは5つ星ホテルから』がはじまる時間帯だったので、これを見ることにしました。今日が最終日でした。
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映画を見終わり、渋谷駅ハチ公口へ行くと赤い派手なプラカードを持った10名位の老若男女が群がっていました。「何?」見ると『2月9日(日)都知事選 選挙へ行こう』と書いてある。そうだった。苦い現実に連れ戻されてしまいました。
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原宿駅で電車を降りたら竹下口でした。そのまま人波に乗り竹下通りへ。人と人とがぶつかりそうなくらい人で一杯でした。
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竹下通りの超ハデハデなお店。昔、ここに集まり独特の洋服(長いぞろっとしたスカート)やじゃらじゃらアクセサリーをつけた子供たちのことを、『竹の子族』って言ってた時がありました。写真の真ん中に、青いダウンを着た育メンお父さんが子どもをだっこして歩いてますね。大人と一緒に幼児から小学生くらいの子どもが結構歩いていて、びっくりしてしまいました。ここも時代とともに変わっていくんですね。
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青山通りにでたら、人が群がっていて、携帯で写真を撮っていました。「何だろう?」覗いてみると、目の前の立て看板の上に猫が2匹!?「うわぁ!可愛い♪」私もスマホでパチリ。後ろは白黒の上品な姿の成猫。手前はグレーのロングヘアーのペルシャネコそっくりのぺちゃんこ顔をした子猫である。ノラちゃんなら家が近かったら拾いたい!!残念!!「ここに誰かが載せたの?」「飼い猫?」「首輪してないけど」「お店の飼い猫じゃないの」いろいろ囁きあっている。猫好きな人たちは結構いるんですね。見てください、この笑顔を。後ろの鏡にも映ってますよ。私ももちろんニコニコですよ。
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青山の表参道の並木道、青空と昨日の残雪。ブランドショップが立ち並んでいます。奥の方の日章旗の横に細く白い横断歩道橋が見えますが、なぜか今日は歩道橋へぞろぞろ人が登って歩いてました。この歩道橋はふだんはほとんど誰も歩いてないのです。雪のせいでしょうか。
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青山、表参道へ来たのは落合恵子さんの「ミズ・クレヨンハウス」で本を買うためです。原宿駅から右側の歩道に沿って歩いて「ブランドショップ・コーチ」(以前ここは蝶のデザインで有名なデザイナー森英恵ビルでした。)の角を曲がって、この犬のマークが並んでる所が「クレヨンハウス」です。駅から所要時間は15分位です。

1階の「クレヨンハウス」は子どもの絵本の専門店です。見ていて飽きないですよ。素晴らしい品揃えです。2階の「クレヨンマーケット」はおもちゃの専門店です。とても温かみのある木の素材のおもちゃやぬいぐるみがあります。3階の「ミズ・クレヨンハウス」はオーガニックコスメとオーガニックコットン及び女性の本の専門店です。この女性の本販売部分が、縮小に縮小を重ね、当初の5分の1くらいになってしまいました。淋しいことです。私は落合恵子さんが青山に出店して以来、ここでたくさんの本を買い求めてきました。
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ミズ・クレヨンハウスのフェンスに咲く花々
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やっぱりバレンタインデーですね。「チョコをあげれば大丈夫ですよ」。
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地下の有機野菜販売「野菜市場」と「オーガニックレストラン 広場」へ続く階段。上京の度、私はよくここの自然食バイキングでお昼をしてきました。地階にはほかに手作りケーキを売る「ケーキのおばさん」があります。
ほんとうはここでお茶にしたかったのですが、帰りの道路の凍結と電車(羽田行)が心配で、心残りでしたが、階段を降りていくのは止めて、3Fのミズ・クレヨンハウスの「女性の本」売り場へ直行しました。
買ったのは『上野千鶴子<おんな>の思想 私たちは、あなたを忘れない』1冊です。
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品プリで預かっていた荷物を受け取ってから、エントランスでコンビニで買ったお茶を飲んで一休みしてから品川駅へ。電光掲示板に羽田行が表示されてない。これって、大分待たなければならないのかなと諦めて並んでいると、電車が来ました。意外にも空いていて座れました。「皆さん。申し訳ありません。この特急電車は、大変遅れて羽田に向かっております」。遅れてって言っても正確に何時の電車か分からなかったけれど、私にはちょうどよく間に合う時間帯でした。都会は便利です。

羽田空港は大混雑してました。17時台の秋田行きが19時半に発ったので、20時25分の飛行機はいつ飛ぶやら分からないため、レストランで軽食を取り、コートを脱いでゆっくり休むことにしました。20時頃、掲示板に秋田行きが定時出発と掲示されたので、乗り口へ。いざ秋田の出発口61番に着くと、掲示板に23時30分と表示されていて、びっくり。秋田へ着くのは真夜中、0時30分。夫へ電話する。ここであと3時間半も過ごすのはきついな…もしかしたらここへ泊ることになるかもしれないと覚悟を決め、さっき買った『上野千鶴子<おんな>の思想』を読みはじめたのでした。

と、「皆さんに大変ご迷惑をおかけしております。秋田行き・20時25分は、21時50分に出発のご用意ができました…」アナウンスが聞こえてきたのです。ああよかった。今日中には戻れる。・・・しばらくしてから、電光掲示板に秋田行き出発時刻が誤表示してましたと、お詫びのアナウンスが流れました。何と人騒がせな!
結局、「秋田空港、霧のため東京へ引き返す」こともなく、夜23時秋田空港へ無事到着しました。我が家に着いたのは23時30分でした。帰宅途中、雄物川の川霧のため前方視界が真っ白。気温は-7℃でした。歩数計は16,300歩、よく歩いた旅でした。
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お土産は『富士山ミニチュアチョコレート』です。桜と富士の方は期間限定チョコです。桜の香りと味がする超甘~いチョコでした。世界遺産の富士山に登ることはできなくても、一口でガブリ、我がものにする征服感!ユーモアがありますね。どなたが考案されたのでしょうか。(笑)
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2014-02-10 10:07 | カテゴリ:日記
2月2日(日曜日)は、町内の雪祭りでした。例年は各家々でそれぞれ工夫を凝らした、大小の雪像やミニかまくらを作り、最優秀賞、優秀賞など選ばれるのですが、今年は残念にもそれがありませんでした。気温が10度近くまで上がり雪が溶けて、雪がない雪まつりとなってしまったからです。その上、雨が降り、パンダ公園に辛くも残った雪でミニかまくらを作ったのでした。ミニかまくらに明かりを灯したら、夕やみにぽっと浮かび可愛くきれいでした。

雪まつり 雨の中で灯を入れる人たち 
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ミニかまくらに灯がともる 
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お汁粉と玉こんにゃくと熱燗のお酒が振舞われました。
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ビールと熱燗で一杯♪♪ かまくら作りお疲れさまでした。
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〔 リハビリと私(1) 〕の続きを書きますね。
年末年始は入院患者が一時帰宅を許される。病院側も大晦日やお正月はなるべく事務職・看護師・医師などに休暇を与えるのがしきたり(労働条件)になっている。大晦日、お正月は病棟に残っているのは重篤な患者だけである。
私は少し快方に向かいつつあったが、ヘルペス拡大の恐れが無くなったわけではなく、37度5分前後の微熱が常にあり、左の耳の中で蝉と鈴虫が激しく鳴き(耳鳴り)、まだ身辺自立が全然できてなかったので、居残り組になった。
いつも慌ただしい病棟もお正月は静かなものである。

嘔吐のため、食べ物にはおのずと制限があった。病院側で食事制限したのではなく、私の味覚が変わっていたのである。お正月になった時点で、私自身が食べられるものはカッパ巻き、生のパイン、キュウイ、イチゴ、リンゴ、ミカン、梅漬け、大根の白い1本づけ、レモンであった。レモンは入院当初から香りをかぐと吐き気が幾分和らぐので、必需品であった。バナナは酷い味になっていて、受け付けられなかった。

私は毎年お節料理はAホテルに頼んでいた。夫が小分けして持ってきてくれたそのお節は黒豆を除いて口にすることができなかった。
お正月は病院で、有難くもお節料理風の食事が供されたが、ほとんど箸をつけることができなかった。お正月はスーパーにカッパ巻きは売っていなく、夫は調理の人に頼んで特別に作ってもらって持ってきてくれていたことが、後でわかった。お正月のさなかに、わざわざ3本のカッパ巻きを作ってくれたその調理師さんにも感謝である。

病人の単純な一日の生活は、「おはようございます。お変わりありませんか?」からはじまり、洗顔、朝食、体温計、血圧計、脳のMRI検査、注射、点滴、シーツ交換、昼食、氷枕の交換、体の清拭、寝間着交換、寝具交換、担当医の往診、部屋の掃除、トイレの往復(介助)、お正月過ぎからは洗髪もあり、夕食などで、「お変わりありませんか?消灯します。おやすみなさい」で終わるが、無為のまま時間は忙しく過ぎ去って行った。

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クリスマス頃から週刊誌と新聞が読めるようになった。家の書棚につんどくになっていた、2001年に出版された『斎藤茂男 現代を歩く』『斎藤茂男 ジャーナリズムの可能性』(共同通信社)を夫から持ってきてもらって読みはじめた。斎藤茂男さんは口惜しくも1999年既に亡くなられていた。誰にも媚びないジャーナリストのまっすぐな眼差し、人間としての優しさに感動し共感し、今もなお、私の生き方に多くの影響を与えている。
私は能代の一長堂書店で斎藤茂男さんの著書『花婿学校』『父よ母よ!』『妻たちの思秋期』『命かがやく日のために』『教育って何だ!』『飽食窮民』を見つけた。

『花婿学校~いい男になるための10章~』1990年(三省堂)は「花嫁学校」のパロデイであるが、当時「男女平等の共生社会」の必要性が真剣に論議され、女性の自立を促し、さまざまな努力がなされても、肝心のパートナーである男たちが旧態依然として男性社会に居座って変わろうとしなければ、女たちの徒労に終わりかねない。
この危機感から樋口恵子さん(校長)斎藤茂男さん(副校長)坂本洋子さんが果敢にも『花婿学校』の入学者(男性のみ)を募集(定員50名、入学者60名、残り23名が単発で参加)したのであった。募集定員をオーバーし、教室は男性でぎっしり埋まり、熱気を帯びた。司会は斎藤茂男さん、講師陣には上野千鶴子さんや田嶋陽子さんも呼ばれた。
たかが、「女・子どもの問題」ではなく、女性が働く喜び、生きがいをもつことがこれからの社会の形成にかかわる重要な問題であることを提起し、男性がそれをどう受け止め、男女平等社会を実現していくのか、先生も生徒も真面目に討議した記録である。

1999年、国を挙げて男女平等を進めるため「男女共同参画社会基本法」が制定、施行された。この頃はイクメンと呼ばれて、男性の育児参加が少し目につくようになったが、家庭と社会での男女の共働は、取り組みが残念ながら非常に遅れていて、『花婿学校』が提起した問題はいまだに新しい問題となっている。

『ルポタージュ日本の幸福~命かがやく日のために』(斎藤茂男編著)1985年(共同通信社)の表紙に「ダウン症の赤ちゃんは生きてちゃいけないんですか。どうして!」と書かれている。その、内容の一部ををトップページ(P13)から引用する。
「繁栄」の残りカスである産業廃棄物を捨てるように、人間が人間を捨てはじめたのだろうか。
能力がなく、役に立たず、なんの価値も生まない人間はじゃまだ、目ざわりだ、不幸な存在だという意識が、社会の低層にどっしりと根を張ってしまったのだろうか。
現代の姥捨て・・・いま、一人の赤ちゃんの命が、ひっそり抹殺されようとしている。
赤ちゃんはなぜ生きることを阻まれるのか、そもそも人間が生きるとはどういうことなのかー

「ただ生きるだけ、ひたすら命ある限る生きてはいけないのか?」命、人間の価値とは?さまざまに問いかけられる本である。

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テレビは枕もとの棚にあったが、大晦日の紅白歌合戦は見ることができなかった。まだそこまで状況は改善されていなかった。耳の中では虫たちが大合奏し、常に揺らぎがあり、頭がすっきるするということはなかった。6年経った今日に至っても、少なからずこの状態は続いている。意思とは反対方向に体が傾いてしまうのである。体調がいまいちな時は、文字がどうしても大きくうねうねし、整った小さい文字を書くことができない。三半規管のいたずらなのだが…こればっかりは、いまだにどうしようもないのである。

1月2日、ちょっとつけて見ようかとテレビカードを入れると、偶然眼にしたのが『箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)』だった。
テレビ画面にあふれる若さ、勇気、希望、情熱、闘魂、1区から10区まで10人で共働して2日と3日、2日間かけてただひたすらに走る。美しい。素晴らしい。感動しながらとうとう2日間箱根駅伝を見続けた。
これが、私の転機となった。「こうしてはいられない。私を待ってる人たちが居る。以前のように活動したい」と思った。

私は転居する前、40代からの十数年マラソン会に入って、毎朝のように能代市の風の松原や落合浜の海辺をジョギングしていた。仲間と5~10㎞走ってから出勤し、爽快感をもって仕事をしていた。そんな私だったから体が『箱根駅伝』に共振した。『斎藤茂男 現代を歩く』にも触発された。私の心はベッドから立ち上がった。
心がベッドから立ち上がったといって、実際は歩けるわけでなかった。歩行器をベットの側に入れてもらいそれに掴まって歩くことからはじめた。
お正月過ぎ、部屋の外、廊下に出ただけで社会の風を浴びた気がした。うれしかった。自分の普段の生活を取り戻すことが当座の目標になった。

朝目覚めると、歩行器に掴まって廊下を歩いてみた。ところが驚いたことに廊下を十数メートル歩くだけで、心臓がバクバクだった。めまいで歩けないのではなく、心臓が苦しくて歩けなかった。
私は20代、腰椎椎間板ヘルニアで手術を受けて1か月余り寝たきり生活をし、やはり歩行訓練で歩き始めたとき、心臓がバクバクして歩けないということはなかった。あの時は、自分の上半身を形取った型に入り、食事はトレーを自分の胸の上に置いて食べた。毎日マッサージ師から足を曲げ伸ばしと大腿から足首、つま先までマッサージを受けていた。だから、ベッド生活で気をつけたのは自分で寝ながら足の運動をすることだった。

何が違うのだろうか?

それはまさしく年齢の違いであった。高齢者になってからの入院は、寝たきり状態になったとき、ものすごい勢いで体から筋力が奪われてしまうことを実感した。
私が今まで見たことがないほど足がスラッとしていた。腕は少し痩せてはいたが、足がこんなに細るとは!歩かないうちに足の筋肉が筋肉自らを不要と見なした結果だった。筋肉も骨も重力を必要としている、地上に重力に抗して立ってるから、健康でいられることを身をもって体験した。

医師に「マリコさん、体を動かしていますか?」と聞かれて、「足の体操をしてます」と答えていたが、そんな簡単な足の体操で済む問題ではなかった。その時、全く事の重大さに気づいていなかった。自分の足で歩くということが、生活のクオリティを保つ第一条件であると認識していたが、まさか自分の足が弱り歩けなくなるなど思いもよらなかった。
何故なら、私は耳の三半規管にヘルペスができて治療を受けるため入院したのだったから。

「こうしてはいられない!」私は、はじめは看護師詰所まで歩行器に掴まって歩くのがぎりぎりだったが、次第に距離を延ばし、病院内を散歩できるようになった。
間もなく歩行器からも離れて、ふらふらだったが一人で歩けるようになった。うれしかった。毎日病院のコンビニに買い物に出かけた。花屋さんにも毎日寄った。小さな買い物をして気晴らししていた。自販機からアイスクリームを買って食べるのが散歩の楽しみになった。途中で一休みしないと歩けなかった。患者が集まるテレビがついてる休息ルームにも行けるようになった。

その休息ルームの小さな図書コーナーで見つけたのが、内藤泰子さんの著書『カンボジア わが愛』だった。
1970年代カンボジアでは、赤いクメール・ルージュ(ポル・ポト派)共産政権(1975年)が、知識階級や支配層(新旧)を徹底的に処刑し、また市民を強制的に都市から追い出し、地方の農村地帯の荒れ地でろくに食事も休息も与えず強制労働をさせて市民を飢え死にさせた。
カンボジア外交官ソー・タンランさんと23歳で国際結婚した内藤泰子さんは、当時39歳になり5人家族で暮らしていたが、大量虐殺と極端な最悪逆境の中で、長男や最後は力尽きた夫のソーさんを失い、奇跡的に生き延び、たった一人で日本へ生還された方である。

当時私は空っぽになったプノンペン市内がテレビに映っていて、ポル・ポトという一人の男の原始共産主義の狂気が、知識人支配層に対する憎悪により国を破壊しつくしてるのを見て、震撼とした。ポルポトは、支配階級・知識階級に対し羨望と敵意や生活に不満を持つ田舎の青年たちを兵士に組織した。政権のやり方は残虐を極め、人、都市、文化を徹底的に破壊尽くした。
内戦の中で運不運に翻弄されながら、惨状の中を生き延びて来られた内藤泰子さんの果敢な勇気と智慧と『不屈の魂』に脱帽した。
サスペンス小説をはるかに超え、ハラハラドキドキする現実の記録である。内藤泰子さんは1992年8月30日、乳がんで惜しくも亡くなられている。生きて居られたらお会いしに行きたい方だった。

この内藤泰子さんの『不屈の魂』に私は呼びかけられた。

   
     宮沢賢治  補遺詩編

      〔肺 炎〕

   この蒼いぐらい巨おおきな室(へや)が
   どうして俺の肺なのだろう
   
   そこでひがんだ小学校の教師らが
   もう4時間もぶつぶつ会議を続けてゐる
   ぽむぷはぽむぷでがたぴし云ふ
    
   手足はまるでありかもなにもからない
   もうそんなものはみんなおれではないらしい
   ただまあ辛くもこう思うのはおれなだけ

   なにを!思うのは思うだけ
   おれだか何だかわかったもんか
   それならおれがないかと云えば……
   何を糞(くそ)! いまごろそんな

(3)へ続く

2014-02-04 03:00 | カテゴリ:リハビリ