猫のポン太は野良ネコだった。7年前の夏、我が家の庭へ毎日のように来ていた。亡き父の盆栽だった五葉松を玄関わきに地植えし、丁度傘のように広がった木陰の辺りをひょろひょろしていた。春に生まれて4ヶ月くらい経ったのだろうか、まだ子猫だった。

 我が家にはミミという先住猫がいる。ミミは赤い首輪に赤い紐をつけ、番犬のように玄関先にじっと座っているのが好きだ。ミミは生まれて40日余りの、毛糸玉のような白い子猫を夫が実家からもらってきて、離乳食から育て、既に7歳になっていた。顔は逆三角形。耳、鼻、口、手足の肉球が赤みを帯びたピンクで、毛が白く長く、首の周りにはライオンと同じ立派なたて髪がある。しっぽはふさふさの長い毛で覆われている。ミミは賢く自分を人間だと思っている節がある。なかなか気位が高い猫である。

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 そのミミに遊びに来ましたという感じで子猫は来た。双方オスなのに、縄張り争いの唸り合いもなかった。只、子猫はハスキーな小さい声でミャオ、ミャオとよく鳴いた。「野良ネコは声を出さないというけど、飼い猫だったのかな?毛糸玉のような時期は過ぎて、去勢が必要な時期になって棄てたのだろうか?お腹が空いて、鳴くのかな?」私がミミの餌を一握り与えると、子猫は夢中で食べた。
「餌をやっちゃったのか・・・居つくぞ。どうする?」夫が私の軽率さを咎めた。返事のしようがなかった。「どうするって分からないよ」。私は野良の子猫を育てることに迷った。「東京のように地域猫として育てられないかな?」。それから私はズルズルと子猫を玄関先に居続けさせた。

 夏から秋へ、そして冬が来た。秋、プラスチックの黒い小さい籠に入れていたのが、籠から体が溢れるようになり段ボール箱に変え、スポーツタオルを入れて半分、蓋をして寒さに備えた。
 11月18日の夜、とうとう猛吹雪が吹いた。子猫は必死に我が家の玄関扉のノブに向かってジャンプする。何回も、何回も。開かないので降りしきる雪の中を走って裏口のドアへ行き、またジャンプ。ドアが開くはずもなく走って戻ってきてまた、玄関扉にジャンプ。何十回も繰り返した。
 扉へのジャンプはこの日に限ったことではない、それまでも嵐や雪の日があって、私は子猫が心配で、何度も玄関横の出窓から子猫の様子を窺って、ジャンプする姿を見ていた。「寒いだろうな。まだ小っちゃいのに一人ぼっちで必死に生き延びようとしている。私はなんて冷たい人間なんだろう。このままでは、寒さで死んでしまう」・・・私は健気な子猫を見過ごすことができなかった。

 玄関の扉を開けると、子猫がびっくり、いきなり口が耳まで裂けた夜叉の顔で睨み、全身の毛を立てシャ~っと私を威嚇した。捕まえて玄関に入れようとしても、夜叉になって抵抗する子猫。「すっかり人間嫌いになっているのだろうか?」しかし放って置くわけにはいかない。「ここで、このまま寒さに晒され、凍死されても困る」。
 暴れる子猫を捕まえ、取りあえず植物部屋へ。椅子のクッションの上に座らせると、意外にも、すっかり大人しくなった。少し餌をあげて、さてどうしようか考えた。まずオシッコの砂場が必要だった。幸い、オシッコを教えたら失敗することもなかった。「お利口さん」と言って頭を撫でると目を細めた。「大丈夫だ」で、明日の朝、「夫にどう説明しようか?」「入れちゃった」でいいか。それしか言葉が浮かばなかった。

 朝、起きてくると夫は「入れたのか」と一言。「うん、私が責任取る」。全く自信がなかったが、子猫を飼う覚悟をした。名前は「ポン太」とつけた。顔は逆三角形、目がまん丸い。耳、鼻、口、手足の肉球は地味なピンク色である。チャコールグレーに黒の縞模様が入り、長くしなやかなしっぽを高々と掲げて歩く。目玉は横から見ると、ビー玉のように透き通ってみえた。なかなかハンサムである。青い首輪がよく似合った。

 難問は先輩猫のミミとの折り合いがつくかどうかだった。「ケージへ入れて飼おうか?」と夫。「それは可哀そう。私が見るからケージに入れるのは止めて」と私。しかし、居間へ放すのはためらわれた。しばらく植物部屋で一匹暮らしをさせた。この部屋には暖房が入ってなく寒い。引き戸の前後を猫が通れない幅に開けて温かい空気が届くようにした。
 猫は夜行性なので、なかなか寝ないので、「ね~んねんころりよ~・・・ポンちゃんの母さんはどこへ行ったァ♪」と子守歌を歌って、撫でて寝かしつけた。だっこは嫌がった。

 ある日の夜中、顔を触られた感触があって、目が覚めた。暗闇で「ミャオ、ミャオ」と鳴いてるのはポン太ではないか!びっくり。「どうやってあの重い引き戸を開けてきたの!?」それから毎日、階段を登り、ポン太は2階の私のベッドまで来るようになった。それまで、一度も寝室に連れて来たことはなかったのに解るんだ!猫の嗅覚と視覚の鋭さに驚いた。
 「やっぱり、ケージを買おう」と、夫が言う。猫は犬と違って、自由な気質をもっている。「いたずらはさせないからケージは止めて」「じゃ自由にさせるか?」「できたらね・・・やってみるね」。ポン太は晴れて家の中を歩き廻れる自由を得た。

 案の定、ミミは容赦しなかった。猫パンチを喰わせ、大声で「にゃおん、にゃおん」と鳴き、子猫を嫌がり警戒した。子猫は悪びれる様子もなく、行きたいところへ行き、何にでもじゃれて遊び転げた。ポン太を自由にしたことで、それから3か月間というもの、私は猫育てに多くの時間を費やした。子猫に飼い主が気を取られ過ぎると、先住猫が家出するとも聞いていたので、序列は1番がミミ、2番がポン太、3番目が夫になった。
 
 春、ポン太を去勢した。ところが、マーキングをしはじめた。玄関、廊下、階段の上がり框に強烈な匂いが充満した。私は臭いに弱いので頭が痛くなった。子どもから聞いたW酵素配合液体洗剤で拭くと摩訶不思議、鼻を突き刺す匂いが消えた。安堵した。その後、マーキングは殆どしなくなった。

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 ポン太はトラウマ猫だった。猫がトラウマ?野良時代、人間に追い払われて、人を怖がり、知らない人には近づこうとしなかった。子どもが大嫌いだった。
 甘え上手のミミが、来客にすぐスリスリして頭や体を撫でてもらおうとするのとは対照的だった。
 ポン太は私が掃除のためモップや箒を持つと、一目散に階段を駆け登って逃げた。「ん?どうして?」その謎は間もなく解けた。「この猫、うちの魚を取ったから、箒で追い払ったことがある」とAさん。「この猫、うちの庭へオシッコやウンチをするから箒で・・・」とBさん。
 ポン太の身になれば、食べることと排泄することは、生きてるのだから絶対必要条件だっただけなのだが。
 野良の子猫の身にとっては、長い棒は命の危険を感じるそのものだったのだ。私が掃除機やモップを手にしても逃げなくなったのは、ここ2年ぐらいのことである。
 我が家に時々訪れるAさんとBさんの声にも敏感に反応した。「こんに~」と言うと、もうポン太は一目散に逃げた。二人の声に馴れることは最後までなかった。危険に対して猫でもこれほど反応し、生き延びるため自己防衛をすることに、私はまたも驚いた。猫は聴覚も鋭い。
 
 カウンセラーである私は、トラウマやPTSD(心的外傷)で苦しむクライエントの話を聞く機会が多い。大抵のクライエントは、「過去のことは、早く忘れて再出発しなさい」と周囲の人から言われるという、二次被害を受けている。猫でさえ忘れられないのだから、人間であるクライエントが忘れられないのは当然である。
 DV被害に遭い、命の危険に晒されて、対処すべき方法がない状態を何度も経験し、それを何度も思い出し、辛く苦しい場合は、医師によって「複雑性PTSD」と診断される。 

 ポン太が野良猫時代をどんなふうにサバイバルをしてきたのか聞くすべはないが、子猫が生き抜き我が家へ辿りついた、そのことを思うと愛おしかった。
 ポン太は6月17日の夜中、突然、急死した。享年7歳であった。まさかの死であった。あと10年は一緒に居れると、私はのん気に思っていた。
 
 心筋梗塞だった。荼毘に付して、夫と子どもと私の三人でお骨を拾った。50分かかると言われたが、1時間かかった。骨になったポン太の首の下、心臓の辺りに真っ黒い大きな頭大のボール状の塊が残っていた。内出血の跡だという。宙にもがき断末魔の苦しみを苦しんで、ポン太は息を引き取った。「何も悪いことはしないのに、何故?こんなに苦しませるの!!」私は怒り、悲しんだ。ポン太の死は不条理に尽きた。
 ミミはポン太が苦しみはじめてから、異変を感じて、ずっとポン太から離れなかった。「ニャオ、ニャオ」と短く鳴いてポン太に呼びかけた。
 「ここに置いて行かれますか?」斎場のDさんに聞かれた。そんなむごいことはできない。ポン太が淋しがる。骨壺を木の箱へ入れてもらい、斎場から持ち帰った。何もする気にならない。涙だけが溢れでた。

 亡くなる一日前、ホットラインについて忙しくしている私を、ポン太は対角線上になる床の間の隅っこに座って一日中見つめていた。「ポン太」と呼ぶと、聞き取れないくらい小さな声で「ミャオ」と返事が返ってきた。「あら、ポン、今日は大人しいのね。Cさん、ポン太は『結んで開いて♪』のお遊戯ができるのよ。見せたことがあるっけ?」と、一緒にホットラインを受けているCさんに聞くと、「ない」とのこと。「見せる。見せる」私は無造作にポン太を抱きかかえてきて、『♪むす~んでェ・・・その手をあたまぁ~に♪』までやって見せた。「天さぁ~い♪バ~カボン♪バ~カボンポン♪だものね」「ポン太は私の言うことは何でも聞くの」と、私は得意がった。その時、すでにポン太の体に異変が起きはじめ、無理矢理踊らされて苦しかったのかもしれない。

 当日、発作を起こす直前に、一旦、二階へ行って寝てる筈のポン太が私を迎えに来た。ポン太は私が夜中の2時3時まで起きてパソコンをしている脇で、テーブルの上に座り、私がベッドへ寝に行くのを待って居るのが常だった。遅すぎるとキーボードの上にずかずか乗った。
 その日は0時過ぎだった。「待ってね」。ポン太を抱き抱えて台所の小窓を閉めようとすると、異常に嫌がってもがいたので手を放すと、さっさとポン太だけが二階へ行ってしまった。「ポン太も大人になったなぁ。じゃもう少し・・・」。私はまたパソコンに向かった。

 「お~い!マリコ大変だ!!来てくれェ~!」「どうしたの~?」「ポン太が~大変だ~!」私が二階の寝室へ駆けつけると、ポン太は息が荒く目を剥き出し、かすれた声で「ギャオ、ギャオ」と激しく鳴いていた。「ポン太!お母さんだよ」頭を撫でると一瞬、鳴くのを止めて私を見つめ返した。
「何でこんなことになったの!」「わからないよ」。すでに後ろ足がだらんと垂れて完全に麻痺していた。舌を出して「ギャッ、ギャッ」と短く鳴く。苦しみだして1時間半程で息を引き取った。

 動かなくなったポン太の側に私たちは気が抜けたようになって長い間、座り込んでいた。猫の救急病院は秋田にない。為す術がなかった。ミミも、籐の脱衣籠の中で目を開いたまま静かになったポン太の顔を何回も覗き込み、私たちと一緒に起きていた。あんなに苦しんだのに、いつもの無邪気なハンサムボーイに戻っていた。朝になると、ポン太に掛けたタオルの上に、庭で摘んだ薔薇や蘭やパンジーの花を撒き、百合の花束を供えた。名残惜しく一日半置いてから荼毘に付した。

 ポン太は幼い子どものように私について回り、私によくシッポを踏まれて「ギャン」と鳴いた。そのたび、私は「痛くしてゴメン・ゴメン」と、抱いて頭や体を撫で詫びていた。
私が外出した日は、出窓に座り私を待ち続け、「ポンちゃんただいま」と声をかけると、急いで出窓から降り、玄関で待っていてくれた。
おもちゃのネズミを放り投げると、それを夢中で走って行って拾い、口にくわえてきて私に見せた。それを何度も繰り返し、疲れるまで遊んだ。

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 今年になってから、ミミとポン太は和解し、居間のソファの上で仲良く二匹が体を寄せ合い寝るようになっていた。それまではあり得ない光景だった。ポン太が居なくなってから、ミミは情緒不安定になり「ニャォ、ニャオ」と、よく鳴くようになった。
 
 斎場のDさんが優しく私の取り止めのないポン太の話を聞いてくれた。有難かった。黙っていても涙が出てきて、自分が悲しんでるのだなと分かる。49日が過ぎたら、もう少し涙が減るかと思っていたが、涙は不意に出てきて私を悲しませる。カウンセラーは何度も何度も同じ話を聞くが、私も何度も何度もポン太の話を色んな人に聞いてもらうのだろうか。ポン太を抱いた時の温もりが私の腕に残っている。

11月18日、7年前のこの日、猛吹雪の夜、ポン太は我が家の猫になった。私は、ずうっとポン太が私を頼っていたと思っていたが、ほんとうに頼っていたのは私だった。 
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2013-11-19 14:23 | カテゴリ: